ドライブルートのなかから、歩いて学べるエリアをクローズアップしてご紹介するコーナーです。今回の散策コースのテーマは、「朝鮮半島が見える場所にて・・・」です。
韓国までわずか49.5キロという距離、天気が良く条件がいいと肉眼で釜山市を臨むことができます。“国境の島”といわれる対馬らしい特別な場所。さあ、最も韓国に近い、対馬最北端エリアをウォーキング!


朝鮮国訳官使殉難之碑(ちょうせんこくやっかんしじゅんなんのひ)

豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)によって悪化した朝鮮との関係でしたが、徳川家康から修復を命じられた対馬藩初代藩主・宗義智の懸命な努力が実り、両国の国交は回復します。朝鮮からの正式な使節団の派遣も、慶長12年(1607)に再開しました。朝鮮通信使は、朝鮮から江戸(もしくは大坂留)を往復する総勢300〜500人の大行列で、この後文化8年(1811)までの約200年のあいだに12回送られました。

この朝鮮通信使とは別に、対馬の府中(現在の厳原町)まで往復した100名ほどの使節が「朝鮮国訳官使」です。日本語通訳官を正使とする“訳官使”は対馬藩主の慶弔や外交の実務交渉のために派遣され、江戸時代における対馬への来島は50回以上を数えます。善隣外交を支えるうえで、大きな役割を果たしてきたといえます。
この場所に建つ「朝鮮国訳官使殉難之碑」は、遭難した朝鮮国訳官使を追悼するために建立されました。元禄16年(1703)、対馬に向け出港した108名の朝鮮訳官使一行が、嵐に襲われて遭難。入港の直前に天候が急変したのでした。対馬藩をあげての救難作業も虚しく、この鰐浦で対馬藩士4名を含む乗船者全員が痛ましい死を遂げたそうです。

韓国展望所

朝鮮国訳官使殉難之碑のすぐそばに、韓国の古代建築様式を取り入れて建造された韓国展望所があります。
この展望所からは、天気が良く気象条件が良い日には韓国釜山市の町並みを望むことができます。クッキリとよくは見えなくても、なんだかモヤァーッっと見えたような気がしてくるから不思議です。

また、日が暮れると、釜山の夜景も見ることができます。ぜひとも自分の目で見てみたい光景ですが、1回目で見ることができなくてもがっかりしないでくださいね。
展望所の内部には、朝鮮との外交の歴史や文化がわかる史料が展示されています。

ヒトツバタゴ自生地・展望所

ヒトツバタゴはモクセイ科の落葉高木で、日本では木曽川流域や対馬北部の鰐浦(わにうら)など限られた地域にしか自生していないそうです。
鰐浦のヒトツバタゴ自生地は国の天然記念物に指定されています。このヒトツバタゴは、たくさんの別名を持っている木です。名前がわからず見なれない不思議な木であることから「ナンジャモンジャの木」。鉈(なた)が折れるように木質が非常にかたいことから「ナタオラシ」。

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展望所から見下ろす港の風景 |
また5月には雪のように白く小さな花が咲き誇り、夜に入り江を白く照らすことから「ウミテラシ」。花が咲く5月上旬になると、鰐浦ではヒトツバタゴ祭りが開催され、対馬内外からの見物客で賑わいます。

豊砲台跡(とよほうだいあと)

国境の島・対馬は、古代より国防の最前線にあり、その歴史に戦いの跡も刻んできました。白村江(はくそんこう)の戦い、刀伊(とい)の入寇、元寇(文永・弘安の役)、応永(おうえい)の外寇、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)・・・。
江戸時代になると、日本が鎖国政策をとっているあいだに、世界の勢力図は大きく塗り替えられていました。ヨーロッパ列強国は極東の植民地化に力を入れていました。南下していたロシアと、それを封じ込めようとしたイギリスが、対馬への侵略を計画していたのです。安政6年(1859)、イギリスの「アクチオン号」が対馬の浅茅湾(あそうわん)の入口である尾崎浦に停泊し、測量を開始するという事件が起こりました。また文久元年(1861)には、ロシアの「ポサドニック号」が浅茅湾の芋崎を占拠し、島民2名が犠牲になるという事件が発生し、イギリスを巻き込む国際問題にまで発展しました。

イギリスとロシアの事件を背景に、外敵から対馬海峡を防衛するためにも対馬と壱岐を要塞化する必要性が高まりました。1887年(明治20年)より砲台工事が開始されます。当初は、対馬海峡の中央に位置し艦船の停泊地として最適だった浅茅湾を防護するために大平砲台など4箇所が完成。東京湾に次いで国内で2番目に建設されたもので、防衛最前線としての対馬に対する意識が高いことをうかがわせます。
明治31年(1898)以降は、ロシアを意識した防衛を目的として13箇所に砲台を設置。中国東北部(満州)と韓国の支配をめぐり日本とロシアが戦った日露戦争では、明治38年(1905)、日本の連合艦隊とロシアのバルチック艦隊が対馬沖で戦いました。日露戦争後は、国防の第一線が対馬から大陸へ移ったため、大陸と日本本土との交通を擁護することを目的として、この豊砲台などが建設されました。豊砲台は昭和9年(1934)3月に完成し、戦艦の主砲をこの砲台にすえつけられたとされています。しかし、実戦に使用されることはなく、「まぼろしの砲台」ともいわれています。兵舎・地下室が今も残っています。