当時対馬藩政の中枢を占めていた江戸家老・佐須伊織、国家老・杉村大蔵、御側用人・森川長久郎などがいました。世子問題に納得いかなかった碧は、世子決定を覆す政治工作を始めていくのです。なんと藩内の政情の不安をもたらしたという理由で江戸家老・佐須伊織に謹慎を求め、1848年(嘉永元)、ついに佐須派を一掃させると、自分を支持する人々を取り込み小姓政治を推進させていいました。
もちろん、碧の策を排除しようという動くものも居ました。これらは義党と称して藩政の粛正を求めました。しかし碧は義党のメンバーを次々に蟄居させ対抗勢力を弾圧していきます。とうとう藩主・義和も碧派に屈し、勝千代を世子にしました。佐須伊織は、勝千代を世子にするため反対する人々を弾圧し、1856年(安政3)、勝千代が正式に世子と決定しました。一度世子となっていた善之允は、根緒岩次郎と名を変え家臣列に下りました。
この頃(1859年)、イギリス艦アクチオン号が浅茅湾(あそうわん)の入口にあたる尾崎浦に停泊し、乗組員たちは湾内を測量して上陸するという騒ぎが起きています。
1860年(万延元)には、勝井五八郎ら碧派に反対する勢力が武装し、万松院や太平寺に立て籠り藩政の粛正を訴えました。藩主・義和に対し、碧を排除し、善之允を世子とするよう嘆願しました。現状のままでは紛争が絶えないという不安もあり、義和は善之允を世子とすることに決め、碧派によって排斥されていたものも藩政に復帰させることにしました。
翌年、嫡子届けが行われ、善之允が後継者として確定しました。
世子問題で揺れていた対馬藩でしたが、ようやく世子問題が片付いた矢先に、ロシアのポサドニック号が対馬の尾崎浦に現れ、芋崎(いもざき)を占拠するという事件が起きました。
1859年(安政6)のイギリス艦アクチオン号の来訪の目的は、東南アジアの植民地化政策を強化し、ロシアの南下政策に対抗し、朝鮮海峡に防御線をはるということも目的のひとつでした。そのイギリスに対し、ロシアは船が破損したので修理したいという理由で芋崎に来訪しましたが、船修理所を設営し、治外法権地の設置をすることが目的だったといわれています。そして船員たちは上陸し、木材を切って営舎を構え、その後井戸を掘りました。
イギリスもロシアも、自国の利益のために対馬を占拠することの重要性を認めていたことは確かだったようです。
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| 万松院 対馬府中藩宗氏の菩提寺です。百雁木(ひゃくがんぎ)とよばれる123段の自然石の大石段を登ると歴代の藩主と一族の墓が並んでいます。国の史跡。 |
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藩内では、攘夷運動が展開されていきました。対馬藩は対長同盟により、兵食援助や手当金、兵粮米支給など思った以上に長州藩の支援を受けました。藩主・義達は、行財政を改正し、攘夷体制を強化しました。しかし対長同盟によって、長州藩とともに尊王攘夷の遂行を義務づけられています。
朝廷が攘夷決行を決定し、決行日が近づいてきました。勅使三条実美(さねとみ)らの身辺が危険となりつつあったため、長州藩は対馬藩へ50人の身辺護衛を求めてきました。しかしこの護衛問題をめぐって、佐幕派の勝井五八郎と当時対馬藩の攘夷論の中心人物であった大浦教之助が対立するようになりました。
しかし長州藩がアメリカ・フランス・オランダの軍艦によって下関を砲撃され、その後アメリカと交戦し敗退するという事件が起こりました。この事件で長州藩は御所警備の任務を解かれて京から追放されました。この状況を知った対馬藩の攘夷論者は、続々と脱藩し、長州藩に加わっていきました。また藩内では平田大江が列藩協和による攘夷を唱え、福岡藩を仲介にして薩摩藩と長州藩が提携するという提案が出されました。また大浦教之助は、文武の興隆と養成によって攘夷論を高めようと、1864年(元治元)に文武館を設置しました。その後文武館から日新館へと改称し、経学、史学、諸子学、文章学、習字、医学を、武術では剣・槍・弓・砲・柔術などを教え、200余人の有能な人材が集まりました。
長州藩が御所警備の任務を解かれたことで、対長同盟はかえって幕府から責任を追求されることになる可能性もあるため、自藩の国力を増加し、富国強兵による攘夷体制を強化する方針がとられました。また藩の財政改革も必要となり、生産方役所を設置して大坂で生産品を取りさばくよう財政強化を図りました。そして諸役人を縮小し、重職者などを対馬へ帰国させるようにしました。
大坂で帰国命令を受けた勝井五八郎と平田大江は、尊王攘夷派の大浦派の策ではないかと疑い、大浦教之助の長男で京都の留守居役であった作兵衛を自殺に追い込みました。
この事件が対馬藩に届き、大浦派や日新館メンバーは激怒しますが、ちょうど幕府から長州征伐の命令が出されたのを好機ととらえた勝井と平田は、対馬藩へと戻りました。他の勝井派と合流した一行は城内に入ると藩主を拉致し、そして大浦教之助は藩主を防州氷上に移し、勝井・平田を排斥しようと計画していることを進言し藩主を警固する体制をとりました。
勝井五八郎の城内占拠により、府中は騒然となりました。
藩主は藩士を集め、勝井五八郎の処分を決めようとしましたが、逆に勝井は大浦らが藩主を防州氷上に移そうとしていると強く主張しました。日新館のメンバーは憤慨しましたが、藩主移住の嫌疑を晴らすことができずに、逆に大浦教之助をはじめ多くの日新館メンバーが処分されることとなりました。200名を超える対馬藩の有能な人材が処刑され、日新館は廃止されました。
この事件を勝井騒動(甲子事変)とよんでいます。
攘夷論の中心であった大浦派や日新館メンバーを一掃すること成功した勝井五八郎は、宗家の政権確保と自分の保身しか考えていなかったため、動揺している対馬藩をどういう政策で進めていくかなどは特に考えてはいませんでした。
大浦派や日新館メンバーを一掃するために協力し、勝井騒動後に重職についていた平田大江には、考えがありました。福岡藩を仲介にして薩摩藩と長州藩が提携するという雄藩連合による王政復古論でした。そのため平田大江にとっては、佐幕派の勝井五八郎を排斥する必要があったのです。平田大江・主米(しゅめ)父子は、福岡藩と長州藩に応援を求め、当時日新館派で京都藩邸にいた旧勝井派の多田荘蔵(ただしょうぞう)らを中心に尽義隊(じんぎたい)を編成しました。そして福岡藩に使節を要請し、平戸藩・大村藩に援兵を依頼、当時博多に居た西郷吉之助(隆盛)にも対馬藩の実情を説明し応援を承諾させ、大宰府の三条実美卿らにも会って使者派遣の承諾を得ると長州藩からは回天隊が派遣されました。
その間、勝井にとっては、平田父子と多田荘蔵の行動は、幕府の嫌疑を招き対馬藩自体が取り壊されるという危険性を感じており、帰国命令を出しても戻ってこない平田大江を解職し、藩命をもって1,000人ほどの人を集め、平田大江の来島に備えました。
対馬藩には福岡藩使節がまず交渉を行い、その後三条実美の使節と回天隊によって交渉が行われ、対馬藩はようやく平田父子と多田荘蔵の罪を許します。しかし、藩内では依然勝井派の力が及んでいたため、三条実美の使節をはじめ各藩の攘夷論者たちは、藩主・義達に攘夷の復活と佐幕派の排斥、平田大江を支持するよう陳述したといいます。
藩主は、勝井の暴政や今後の藩の立場を考慮し、勝井五八郎の暴政を抑圧させることを決め、家臣に指示し、勝井派の中心人物たちを殺害させました。一方勝井五八郎も反対勢力を暗殺する動きに出ましたが阻止され、切腹を命じられました。勝井は抵抗しますが、平田大江や反勝井派に囲まれ斬殺されました。そして勝井派は罷免され、藩政から大きく退かされました。
勝井派が退くことで、再度攘夷派が台頭するかと思われましたが、平田大江が目指した勤王論は取り入れられず、対馬藩は佐幕派の立場を決めました。
各藩の攘夷論者たちは、再三平田父子の復職運動を試みましたが、対馬藩は三条実美や長州藩には苦しい藩の立場を理解してもらうよう使者を出し、幕府に対してはこれまでの経緯を説明し、仕方なく攘夷論をとった時期があったことを説明し、長州藩と行動をともにしない旨を伝えました。
一方、平田大江はなんとかして藩政を佐幕派から勤王論へと変えようと努力し、福岡藩や薩摩藩にも使節派遣を依頼し、藩主を説得しようとしますが、佐幕派や勝井派の残党の反対にあいます。1865年(慶応元)、平田大江は勝井派の残党から殺害され、翌日子の主米は自刃したといいます。多田荘蔵ら尽義隊も命を狙われましたが、長州藩の回天隊に助けられ、脱藩しました。
こうして平田父子や尽義隊は、志を果たせずに終わりました。
平田大江が殺害された後、長州藩の回天隊に助けられた多田荘蔵らは、その後どうしていたでしょうか・・・・
多田荘蔵らは、平田大江が主張していた薩摩藩と長州藩が提携する雄藩連合による王政復古を目指し、運動を展開していました。
長州藩が征討されるという危機に、薩摩藩へ行き、大久保利通と面会し薩長連合の必要性を説き、その後大久保と共に上京して西郷吉之助と面会、その後黒田了介と会談し、黒田了介を長州藩へ下向させることに成功したといわれています。
そして1866年(慶応2)には下関で木戸孝允と面談し、奇兵隊の一員となっています。その後奇兵隊隊長・高杉晋作の命を受けて筑前姫島に牢居されていた野村望東尼(ぼうとうに)救出に成功するなど活躍しています。
対馬藩の幕末は、世子問題に始まり、外国船の来航、移封論と様々な出来事に直面し、さらに攘夷論、佐幕論、勤王論と藩政をめぐって血なまぐさい派閥政争が展開されました。こういうことから、対馬藩は時局から大きく取り残されることになりました。
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