前回の「五島藩・第1回」の中でも少し触れた富江領の成立について、もう少し詳しくご紹介しておきましょう。
鯨見山から見た風景
五島列島の地図を見るとよくわかりますが、有川(五島藩)と魚目(富江領)は、有川湾をへだてて南北に相対する漁村です。有川湾は、鯨を追い込むのに適しており、有川村名主・江口甚左衛門正明(じんざえもんまさあき)は、紀州古座浦の三郎太郎と鯨組を組織し、鯨漁をおこなっていました。
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| 鯨見山にある山見小屋 | 鯨供養碑 |
1866年(慶応2)4月28 日、ワイルウェフ号は長崎を出港し、薩摩を目指しましたが、途中大暴風雨に遭って漂流し、5月2日暁、潮合崎で暗礁に乗り上げ転覆したのです。乗組員4人を除いて他は死亡しました。この事故はただちに福江藩庁、薩摩長崎屋敷に報告されました。
幕末は、勤王と佐幕に分かれて争っていた時代でした。
そんななか、五島藩は、藩主・五島盛徳(もりのり)が1863年(文久3)に京都御所にて忠誠を誓い、勤王派として積極的に活動しました。1868年(明治元)には進んで版籍奉還を上願し、京都御所の守備にあたりました。また1870年(明治3)の東京遷都の際には一小隊を送って警固にあたっています。
富江領では、8代目領主に奥州植田藩主溝口直景の弟・銑之丞を養子として迎えます。銑之丞は名を盛明と改め、将軍家茂に謁見し、富江領主となりました。7代・盛貫は将軍家茂と血のつながりがあり、8代・盛明は奥州植田の出身であったので、富江領は当然外部からは佐幕派とみられていました。盛明は、1868年(慶応4)に京都へ赴き、本領安堵の御朱印を貰いましたが、その後朝廷での審議により、富江領3000石を五島藩に合藩するということが決定しました。
この合藩に反対したのは、富江領主や重臣たちだけでなく、領民たちも同じでした。宇久や魚目、椛島の領民たちは次々と富江に集まり、15歳以上の男子は竹槍を持って警備にあたるなど、合藩反対運動は予想以上に大きなものとなりました。五島藩関係者を襲撃したり、家などを焼き討ちしたりと暴徒化した領民もいたといわれています。
慌てた五島藩は、藩役人を富江領近くへ出張させ、30名ほどに武装させ、海上には監視船を出させました。さらに町人たちも武器として棒などを持ち、富江領からの攻撃に備えたといいます。五島藩、富江領、双方ともに戦う体制が整い、緊迫した状況となっていました。
しかし、双方とも攻めかける企図はなく、戦うことはありませんでした。富江領今利家老は、五島藩の要請もあって単身で福江城へと登城し、五島藩の重臣たちと事態収拾の話し合いをおこないます。富江に戻った今利家老は、領主・盛明へ報告し、翌日、盛明が重臣たちを陣屋に集めて下る訓諭をしたため、富江側の一揆は鎮静化しました。
この騒動の件は長崎役所にも届き、富江家老2名が出頭することとなりました。当時の長崎府には、長州藩からの出仕役・参謀であった井上聞多(馨)がおり、この騒動を引見しました。井上は富江領に同情的で、辛抱するよう諭したといいます。この富江騒動は、単に富江の一揆という問題ではなく、長崎府ひいては全国的な地方治安に関する大きな問題だと認識されました。
井上は、実情を把握するため、薬師寺久左衛門と高松清一とともに五島へ渡っています。井上は盛明と対談し、宣撫訓諭するところが見受けられ、今後謹慎を誓ったので安心して福江に引き上げました。井上に随行していた薬師寺と高松の2名は、善後策のため富江領地を視察し、領内宣撫に努めました。しかし、有川と長い期間をかけて海境論争を展開してきた魚目の領民をなかなか説得できず、手を焼いたといいます。
旧領回復をあきらめきれない富江領は、新政府に復領嘆願を行います。しかし、1869年(明治2)、検分に訪れた明治政府監察使・渡辺昇(のぼり)が、今利家老をはじめ藩士一同を集め、朝命遵守を訓諭したため、復領嘆願も功を奏しませんでした。
教会の正面には、プチジャン神父らの意向によって、漢字で「天主堂」の三文字が記されました。この文字には、潜伏中の日本人キリシタンを探し出したいという強い思いが込められていたそうです。大浦天主堂のことは、これまでひそかにキリスト教の教えを守り貫いてきた浦上村の潜伏キリシタンたちに伝わりました。意を決した男女十数名が命がけでフランス寺へ向かい、プチジャン神父に自分たちはキリシタンであることを打ち明けました。この出来事は「信徒発見」とよばれ、キリスト教史上の奇跡ともいわれています。
上五島の若松島・桐古(きりふる)に住んでいたガスパル与作は、フランス寺が教会であることを知り、父親の許しを得て、大浦天主堂で教理を学び、伝道師となりました。この話は下五島の久賀島にも伝わり、島のかくれキリシタンたちのまとめ役であった帳方(ちょうかた)の栄八と水方(みずかた)の善太も長崎へ赴き、カトリックの洗礼を受けました。1869年(明治2)には伊勢松、善五郎の二人も長崎へ行きましたが、長崎港福田で役人に捕らえられます。メダイを所持していたために嫌疑がかかり、五島住民であることを自白したので、五島藩に送り返されてしまいました。
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| 楠原教会 | 楠原の仮牢屋跡 |
捕らえられたキリシタンのほとんどは、そろばんのように凹凸のある板を正座した足の上に乗せられ、重さを増やしていく算木(さんぎ)責めという拷問などで棄教を迫られました。また「郷責め」といって、地元住民たちによる迫害が激しかった地域もありました。キリシタンたちを大きな柱に縛りつけ、割れ木や青竹で殴ったり、家財や食料などを奪うこともあったといいます。
1870年(明治3)、上五島の鷹巣(たかのす)では、4人の郷士が新刀の試し斬りと称して、キリシタンの家に押しかけ、妊婦を含む6人を殺害するという事件が発生しました。加害者の郷士4人は長い入牢生活の後、切腹を命ぜられました。この4人の切腹によって、五島でのキリシタン迫害は終息したといわれています。
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| 頭ケ島教会内部 | 青砂ケ浦教会内部 |
キリスト教の五島列島への伝来は16世紀です。厳しい弾圧によっていったんキリスト教は途絶えましたが、新たに外海地方から信徒が海を渡り、五島で密かに信仰を守り続けました。
禁教が解かれた後、五島の地においても、信徒たちの手によって教会堂が建設されました。現在、長崎県内には全国のおよそ1割を占める130を超える教会堂がありますが、そのうちの40%が五島列島に集中しています。なかには明治から昭和初期にかけて建築された教会堂もあり、50数棟が現存しています。
五島の教会堂にスポットをあててみると、上五島にある頭ケ島教会や青砂ケ浦教会、下五島・久賀島にある旧五輪教会は、国の重要文化財に指定されています。また、世界遺産登録をめざす「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」※の資産候補となっています。
※文化庁が国連教育科学文化機関ユネスコへ提出する世界文化遺産の国内候補暫定リストに、2007年(平成19)に掲載されています。
近年、癒しと安らぎを求めて“教会巡礼”に訪れる人も増えているようです。
建材や構造も教会によって異なるので、教会ひとつひとつに見応えがあり、かつその空間の中に安らぎを感じることができるのですが、想像を絶するキリスト教信徒への弾圧・迫害の歴史と、それでも受け継がれて現在も生きるその信仰心や祈る姿にも目を向けると、より一層感慨深いものがあります。
![]() 富江陣屋石蔵跡 富江領の石蔵跡。350年ほど経っても頑丈に残っているこの石蔵は、貴重な遺構の1つです。穀物を保存するために使われていました。 |
富江から見る鬼岳富江町にある温泉センター近くから鬼岳がきれいに見えます。透明な海、澄んだ空・・・。島らしい自然を満喫できます。 |